2011年04月01日

支援隊参加メンバーレポート

今回、神戸から参加した若い登山家・山岳ガイドがいます。神戸震災を経験しています。また昨年秋、ネパールヒマラヤのダウラギリで隊員4人のうち3人を失いました。つまり彼が唯一の生き残りでした。死んでゆく方 がいる、それを受け止めなければならない遺族がいる、という共通の観念がが、 彼を石巻に行く我々日本登山医学チームに駆り立てました。
神戸を出てから富山に寄って、国立登山研修所からテントやロープやマットをお借りし、友人たちからたくさんの支援物資を集めて、新潟経由、福島で我々と合流したのでした。

記:増山茂

東北大震災医療支援隊:島田和昭氏レポート

現地に入る事ができて、少しでもできることがあり良かったです
そして、長期的に支援して行くために、おおよその環境が把握できた事は大きな収穫です。私としては、今後とも登山医学会の次の機会を優先的に、芦屋周辺市民やグループとの支援、またガイド協会の支援活動に、参加できるタイミングを調整していくしだいです。

 自分の主観的な感想と言いますか、報告を地域や知人等に配布しました。
阪神間の方々は被災経験から意識が高く、僕の報告書ですこしみえてくる現地の状況を、横の繋がりで伝えられているそうです。もどかしい心を落ち着かせる意味でも効果があるものかもしれません。

 以下、私が配布したレポートです

みなさまへ 
日本登山医学会のサポートにて、昨日東北被災地支援活動から帰阪しました。
活動場所は、宮城県石巻市北上町の各避難所でした。阪神大震災は地震の被害でしたが、今回の被災地は99%といっても良いぐらい津波の被害です。
津波が襲った場所とそうでなかった場所の次元が違います。漁村の施設や民家は壊滅、一方高台にあった民家は無事。津波は一平方メートルあたり50tのエネルギーと聞いている通り、津波の走路上に触れた建物は全て全壊。基礎の強い建物の皮だけは残っていますが、中は壊滅的。

漁村(北上町、小滝、小泊、相川、白浜等)では、漁師は地震後すぐに舟を海に出して舟を守り、家の者は身の安全のため高台へ多くが避難でき行方不明者は少ないものの、北上川河口付近の農村(月浜、吉浜、橋浦等)では津波意識が海の人に比べ低かったのか、津波を見に行った多くの人がのまれた話も聞きました。

特にショックな事は大川小学校で下校30分前に津波が襲い校舎三階まで押し寄せ7割のこどもと先生が行方不明に。発見された場所は70キロほど海を流され塩竈で発見されているようです。

ありえない形で家や車がころがってるような愕然とする光景が続く中、山間に残った避難所、民家8カ所程まわりました。往診・医薬品提供・ヒアリング・物資提供。それぞれのニーズが同じ町でも地区環境の違いで変わり、また避難所内でも被災状況により被災者の温度差がかなりあります。
基本的に道路開通が数日前でしたので、物資不足、医療不足ぎみ。(小さな村、リアス式半島の端あたりは、石巻、気仙沼などの大きな町よりも道路整備が遅れているという感じです)

医療では、診察、薬待ちの方多く、100名程の往診。(症状は風邪、せき、高血圧多し、特に流されて助かった方の疲労はひどい感じ)医薬品では、消毒液、マスク、大人おむつ、幼児用ミネラルフォーター等物資では、テント(低体温症対策、ウィルス患者対策、こども遊び場)ロープ(漁師の舟引き用)、ペンライト200本程(ビクトリノックス提供)、電池、自転車、食糧、ランタン、電池、シート、ロールペーパーなど全て提供できました。
物資提供で難しいのは、特に必需品になっているライトや電池を20〜30という単位ではなく、200〜300という単位でなければ、いざこざの原因になっていく点です。
例えば、各避難所人数が30人としても、その周囲に自宅で避難しているケースが多く、その数は100名ほどだったりします。せめてもの一世帯に一個がある程度均等に提供できなければ、偏りが生じてくるという事です。またそのような地区が町内には何か所もあるのが現状です。

国策や団体的に稼働している大型の物資(燃料、水、食糧、毛布)などは、道路 開通が早かった大きな避難所では早くに配給されている模様。しかし、ちいさい避難所や道路開通の遅い所ではようやく配給されている状態です。(シュラフ物資が避難所で放置されている場所もありました。基本的にシュラフより毛布優先、私たち登山をするものでなければ、シュラフの有効的な使い方保温性知らない感じでした。)

現実的な被災者のニーズは、今を生きるための物資と手段。物資はなによりガソリンと灯油。
(私たちは各車に50リットルほどガソリン携行、緊急車両扱いでも現地にガソリン在庫なく補給不可も多く、宮城からの帰りはようやく栃木の高速SAで補給できた状態でした)

被災者のニーズの手段は、断水、断線されている、電気、水道、ガス、電話、道路が早くからはいっている地区は衛星電話無料施設があったり携帯電話が繋がる所も、しかし衛星も携帯も繋がらない地区もまだまだ多いのが現状。そのような地区の避難所で情報として感じた事はテレビ情報がなくラジオと新聞のみしかしラジオを聞いてる間に人が来たり水汲み食糧分け、炊事洗濯、人探し、家探しも被災者忙しく被災地以外の日本人が危惧している(原発など)の情報や危機感は薄いと感じました。
外から見る被災地の様子と現実的な被災地の人々とのギャップはあります。

被災地を支援するための方法として、私が反省する所は、都会的な被災地の人や若い人は別としても、地元や仕事を愛 していた方々は多くが離れたくないとおもっている。一時避難であれ、今を生きている、捜している被災者に別県への移住は簡単ではないとすごく痛感しました。放射能汚染を一時的に回避するために他府県が積極的に被災者を受け入れればと、支援に行くリスクより被災者が安全圏へ一時避難すれば効率的だ、などと思っていたのが、非常に甘い考えと感じました。でも幼児や子供は長い目でみると、一時避難が有効だとは思うのですが。

支援は国策で動く部分と、ボランティア団体で動く部分、あと個人支援。被災地でも復興に動きだした場所と、今ようやく捜索が始まる場所。ニーズの違いが多くあり、一筋縄で医療・物資支援、被災者の生活支援、避難支援、被災者受け入れとはいかないのが現実です。また日々それらが変化しているのも現実です。

団体の場合は、縦と横の繋がりを持って効率的に持続的に。個人の場合は、縁のある方への1世帯単位での支援や技術者(医療、薬剤、看護、保健、介護、電気、燃料、など)が一時的に参加する事。
また気持ちの強い方は避難所で長期滞在し様々な事に対応できる体力がなければ、報道でも言われ始めた通り右往左往することになります。また今後被災地に最低限の水、電気、ガス、燃料がとおればニーズは大きく変わり、心のケア、体のケアのできる技術者が求められてくると認識しています。

今回私は、議員や医師会の縦横の繋がりから日本登山医学会への要請の元現地の災害本部で行き当たり的に困難なエリアを選定して救援に行く体制で参加しました。

なによりこれ以上原発問題が悪化せずに、しばらくは山水を安心して飲める状態でようやく開通し始めた沿岸道路が地震や津波で再び閉ざされないことを祈るばかりです。
posted by 日本登山医学会ブログ at 16:36| Comment(0) | 会員情報
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