2011年04月01日

東北大震災医療支援隊その5

3/27(日)晴れ
8:00 北山町の災害対策本部にて医療コーディネータと打合せ後、北山中学校(避難所)にて医薬品を補充する。今日は、昨日の3か所を除いた浜地区の5か所の避難所を廻る予定。地元白浜の佐藤あつみ看護師が同行してくれる。

9:00 小泊の避難所。56名の被災者。ここは個人宅2件を利用している。10名ほどを往診。
 金比羅崎を望み防波堤で守られた小泊の入り江には漁船が多数浮かんでいる。しかし、入り江の奥に掛けられた幅10m長さ30mほどの陸橋の橋桁が跡形もない。1キロほど沖に流されたのだという。ここにあった12軒のうち10軒が流された。隣の小指では、46軒中残ったのがたったの6軒。すさまじい破壊である。
 佐々木家。おじいさんが話してくれる。昭和8年3月3日、昭和の三陸津波で流されたのでこの高台に引っ越した。それでもすぐ下まで水が迫った。30人くらいの被災者がここにいる。地震の揺れが収まるやすぐに小泊の漁師たちは船に
乗り込み沖に向けた。第一波は沖1kmくらいでやり過ごした。沖では崩れ落ちる大波となるわけではない。全体的に船が持ち上げられる感じがした。一番大きかった第二波は白波をあげてやってくるのが見えた。2キロ沖合でなんとかやり過ごした。津波が収束して岸に戻ってきたあと、接岸するのがとても大変であった、という。
 もう一つの避難所は、小室の阿部宅にある。23人の被災者。高血圧のコントロールが十分ではない方が多い。この環境では仕方がないともいえるが。医療品、夜間用シート、マスク500ヶ、ペンライト約40ケ、ナイフ約10本、ミネラルウォーター24 、テント6人用×1をご提供する。

10:00 白浜の避難所、白浜荘。白浜で残っているのは小高い丘にあるこの旅館だけ。夏には追浜湾を一望する気持ちの良い旅館であったろうに。プールはマキカマドの炊事場となっている。大広間に48人の被災者が泊っている。同行の佐藤あつみ看護師はここの出身である。
 数人の診察。今日はいい天気なので、被災者の方、ほとんど出払っている。まだ見ぬ親族知人を探しにである。医療品として、夜間用シート×1パック、ペンライト約40ケ、ナイフ約30本、ミネラルウォーター24 。

11:00 月浜の避難所(長観寺)。月浜には何もない。見えるのは小高い丘の中腹にあるお寺さん長観寺だけである。あとは、完全に破壊尽くされている。先人は賢い。長観寺は、浜地区とは言えないかもしれない。月浜は北上川が追浜湾に注ぐ河口左岸に広がる浜なのだが、長観寺はやや内陸に寄っている。つまり、河口の左岸域は完全に消え去ったということである。
 村内のほとんどが壊滅状態である。消防の方がかなり入っている。長い捜索棒を持って行方不明者を探索中である。全体的に避難が遅れ行方不明者も多いとのことである。他の避難所より緊張感が高い。ペンライト約40ケ、ナイフ約10本。

12:00 吉浜の避難所(高齢者福祉センターはまぎく)。吉浜、という地名であるが地図を見ると北上川左岸地区に当たる。以前は「浜」だったのであろう。対岸の長面浦手前の平地は堤防が決壊し水没したままである。
 地震後、津波を確認しようと堤防まででかけた方が多くいたという。小滝、小泊、相川、白浜の漁村では津波を警戒し、避難も早かった。しかし、月浜、吉浜、橋浦等北上川河口付近の農村では避難が一歩遅れたのではないかとのこと。
 吉浜はこの地区の中心地であった。津波避難所を兼ねた総合支所、消防署が建てられていた。みな無残に崩壊した。吉浦小学校も屋上を残して水没した。広い吉浜地区、残っているのはこの3つの残骸だけである。
 崩壊した建物の間を縫って高齢者福祉センターはまぎくへ。90名の被災者がここを頼りにしている。ごった返す食堂で10名程の診察。インスリン注射がままならなくなった被災者がいらっしゃる。明日以降のフォローを佐藤あつみ看護師に託す。
大人おむつ×1パック 大人マスク50、子供マスク50、ペンライト約70ケ、ナイフ約50本、ミネラルウォーター24 、生理用品×50、ランタン×2、消毒液×2などを提供する。

 14:00 北山町の災害対策本部にて報告。北山中学校避難所に医薬品を返還。増山・千島・田井・関崎・棚橋・黒田は予定通り帰る。安藤・島田は、現在石巻に向かっており、翌日診察予定の齋藤医師に業務引き継ぎのため残ることとする。気仙沼で精神科医療の援助を行ってきた澤谷も帰京の途に就く。
posted by 日本登山医学会ブログ at 14:32| Comment(0) | 会員情報
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